写真を見ると、必ず写している人の事を感じる。
それは気配として写真に張り付いている。
実は絵でも同じだ。
描いている人の気配を感じ、
その気配が良いものならば、自分にとっては良い絵なのだ。
作為が見え見えだったり、
無理な努力ばかりが目立ったり
自尊心ばかりがでしゃばっていたり
うるさいぐらいに説明的だったり
ネタ以外の意図が見えなかったり
するようなのはまずパスしたくなる。
その上写真で人間を写した場合には
被写体の演技も加わるのでなおさら厄介だ。
写す人に起きることと同じことが被写体にも生じ
ダメ出し度はさらに加速するのだ。
こういう風にビジュアル表現を常に見ているというのは一般的ではないのかもしれない。
でも、そんな見方が不自然であるとはちっとも思っていない。
作為の不気味さによって、それが怖くて泣き喚く子供を想像してみるといい。
世界は作為に満ち溢れていて
それはミッキーマウスの被り物をしたアルバイトのように怖く写るのだ。
そしてその怖さは、明らかに、
例えば防御本能によって牙を剥き出す犬の怖さとは違うのだ。
怖いものは怖くあるはずなのに
優しさが怖くなる瞬間がそこに現れる。
おそらくそれは演じる側の嘘をつき通す態度なのだ。
しかもその嘘は
覚悟のある嘘ではない。
君の前では嘘をつき続けるけど、君の前でない時は秘密だよ
っていう嘘なのだ。
一見、モダンでシャープでシンプルでしかもカッコ良く見える写真が
実はそんなかぶりもので作られていることが何と多いことか。
その不気味さの正体を何と言っていいのか分からないけれど、
少なくともそれを拒否することは可能なのだ。
ふしぜん
オイラどっちだろ?
sui:
Daniel Lecky: “We Found Waldo”
BRB, shedding childhood innocence.
[more.]
iPadはNintendo DSからの移植を意識している? : Gizmodo Japan(ギズモード・ジャパン), ガジェット情報満載ブログ
Nintendo DSが画面を2枚縦に並べているのをほうふつさせます。Nintendo DSからiPadに移植されるゲームが出てくるかもしれませんね。
ジョブズという人は、気紛れな人ではなく我がままな人でもなく、ただ、原木から仁王を掘り出すという自分の仕事に忠実な人で、帳簿の検算が合うまで帰らない銀行員と同じような仕事をしていただけなのだ。
帳簿が合うまで部下を帰さない銀行員は真面目すぎるとは言われても「ワンマン」とは言われない。iPadがiPadになるまで部下の仕事を認めないジョブズが「ワンマン」と言われるのは何故かと考えると、ユーザ体験には帳簿のような絶対的な基準が存在しないと思われているからだろう。
帳簿上で縦横計が合わない計算を却下することと、あるべきユーザ体験に合わないコードを却下することは、本質的には同じことだ。
違うのは、デザインとかユーザ体験のようなものは全て、人の好みに依存するもの、主観的で相対的なもので、何ら絶対性を持つものではない、という誤った常識があることだろう。
帳簿のような明確な形で基準を言語化できないものの中にも、一種の絶対性はある。それはアートの領域では常識と言えることだし、良いテレビゲームもそれを追求する中で作られていると思うが、ビジネスの現場で、ソフトとハードとサービスがからまって構築されている製品のテイストの中に、日々変化する環境の中のダイナミックナプロセスの中に、そういう種類の絶対性を追求したことがジョブズの独創なのだ。